「旅のこぼれ話」 佐藤 哲男氏 (千葉大学名誉教授、薬学博士)

佐藤 哲男氏(2013/01/26 新屋郷土会での講演にて)

    ・佐藤哲男博士 略歴・
  1. 昭和6年秋田市楢山生
  2. 北海道大学大学院薬学研究科博士課程修了(薬学博士)
  3. 千葉大学生物活性研究所助手
  4. 米国シカゴ大学毒性研究所准教授
  5. 米国ミシシッピー大学メディカルセンター客員教授
  6. 東京薬科大学薬学部教授
  7. 千葉大学大学院薬学研究科教授を経て同大学評議員となり、1996年に千葉大学停年退職。
  8. この間、国際毒性学会連合副会長、アジア毒性学会初代事務局長、理事、同アドバーザー、米国及び日本の毒性学会関係専門誌の編集委員、編集委員長などを歴任。
  9. 日本毒性学会、日本薬物動態学会、米国毒性学会名誉会員
  10. 日本臨床薬理学会、米国臨床薬理学会功労会員,米国毒性アカデミー会員
  11. 日本薬学会有功会員
  12. 専門学会の受賞歴としては、
    1995年、日本薬物動態学会賞
    1996年、日本薬学会教育賞
    2007年、国際毒性学会賞(アジアで初)
    2010年、米国毒性学会教育賞
  13. 専門分野は医薬品、食品の代謝、安全性の研究。
    中でも薬の飲み合わせと副作用一般市民向け著書
    「わかりやすい疾患と処方箋の解説」(アークメジア社、2007年、第3版)
    「危険!薬とサプリメントの飲み合わせ(清流出版、2010年)


秋田市出身の薬学博士 佐藤 哲男氏から、新屋郷土会経由で「旅のこぼれ話」の原稿をいただきましたので紹介します。
なを、写真は原稿をいただいた後、ガイドブックや現地観光局のホーム・ページなどから貼り付けたものもあります。

(管理人 赤川 均)


はじめに

小学校の頃、内弁慶だった私は集団生活になじめず、授業が終ると飛ぶ様に家に帰りました。したがって、今でも小学校の同級生はほとんど記憶にありません。その中でただ一人今でも鮮明に憶えているのは、かつて国連事務局次長として国際的に活躍した明石 康君です。彼は私とは全く対照的な性格で、県内の他の小学校から転校してくるや否や忽ちクラスの中で目立つ存在になりました。そして、中学、高校、東大と現役で卒業し、米国へ留学後そのまま日本人として第1号の国連職員となり、その後国連の代表団となって国際的に活躍しました。

一方、小学校6年生も無事に卒業し、新設間もない秋田市立中学校に入学し、その後学制改革により新設された秋田市立高校(新制)(現秋田県立中央高校)2年生に編入しました。高校3年になると大学への進学が待っていた。どうにかなるだろうという気軽な気持ちで父の母校である千葉大学薬学部(昔は千葉医科大学薬学専門部)を受験した。今考えると無謀の極みであった。ろくに受験勉強もしないで受けた受験は、私にとって情けないほど惨敗に終った。後年、その千葉大学薬学部の教員になって入学問題を作成する立場になるとは、本人は勿論のこと誰も想像しなかったに違いない。運命は不思議なものです。 一年間の浪人生活の後、2回目の受験は国立大学薬学部として全国で知名度の高い富山大学薬学部を受験し、運良く入学出来ました。

大学卒業後は郷里の秋田に戻り、秋田赤十字病院に4年間勤務しました。その後、大学時代の恩師の勧めもあって北海道大学大学院薬学研究科に進学し、昭和41年3月に博士課程を修了しました。同年4月に千葉大学附属研究所の教員として就職しました。昭和50年には薬学部に移動し、それから学部教員としての生活が始まりました。最初の2-3年間は学生と向き合って一時間講義をする事が大変な労働とストレスでした。しかし、そんな生活を10年も続けた頃から、人前で話をすることがそれほど苦痛ではなくなりました。環境は簡単に性格を変えます。恐ろしい事ですが、それまでの人生の中で内向的な性格が外向きに変わった瞬間です。

大学で講義と会議に追われて年を重ねて定年も近くなった1995年に、いろいろな経緯から、「国際毒性学会連合」という国際学会の役員選挙で副会長に推薦されました。それから8年間、多くの国際会議への出席で海外出張が急に増え、多い年には年間90日も海外へ出る事がありました。その間、30カ国を旅して色々な体験をしました。

海外旅行中は病気が一番心配です。海外では自分でそれほど自覚しなくとも、毎日緊張状態が続きます。私の海外出張用の旅行カバンにはいつでも3種類の常備薬が入っています。私にとっての三種の神器は、「睡眠導入剤」、「消化剤」、「抗菌剤(抗生物質)」(下痢、嘔吐のとき)です。欧米へ旅行すると現地に着いてから2−3日は時差で寝付かれないことがあります。そんなときには睡眠導入剤が効果を発揮します。ただし、60歳以上の高齢の方は、薬が効きすぎることがあるので注意が肝要です。第2は消化剤です。欧米の人々と食事をすると、彼らの大食漢振りには圧倒されます。食べ過ぎたときには、ホテルに帰って消化剤を常用量の1.5倍くらい(例えば2錠のところ3錠)飲むと1時間以内に楽になります。市販の消化剤は常用量の1.5倍位飲んでも大丈夫です。ただし多めに飲むと喉が渇くことがありますので、水分を補給する方がよいです。3番目の「抗菌剤」は、東南アジアへの旅行には必需品です。この地域の生水を飲んだら1時間後に間違いなくトイレ通いになります。また、フィリッピンやタイの様な熱帯の暑い中でのかき氷は魅力的ですが、これも下痢のもとです。氷が入ったジュースも危ないです。ホテルの水道水も危険です。私はうっかりしてこの薬を持参しなかったばかりに、三途の川の直前まで行った経験があります。詳細は本文をお楽しみに。

第1話 プロ窃盗団に注意

外国旅行を経験した人は、日本程安全な国は無いという。確かに、ヨーロッパでもアメリカにしても、観光地であればどこでも危険と隣り合わせです。ローマの観光地などは物乞いの子供が群れをなしており、折角の史跡の観光もいやな印象を残すことが少なくない。1980年代に初めて北京へ行ったときに、外国からの観光客が集まる場所や、外国人が多く宿泊している高級ホテルなどの付近には、夜になると物乞いの母親が子供を連れて現れていました。しかし、2000年頃には、中国政府の厳しい取り締まりによりこの様な状態は見られなくなりました。世界中を旅行していると予想もつかない危険な経験をすることがあります。今回はその中で私が体験した三つの災難を述べます。

ホテルロビー

実例1。ニューヨークのケネディー空港発の便で帰国するときの出来事です。アメリカの友人が空港近くのホテルまでわざわざ会いにきてくれた。しばらく話をした後に、友人は目の前の机の上にかばんをおいてトイレに行った。テーブルの上のかばんは私の眼の前にある。友人がトイレへ行った直後、後ろから見知らぬ青年が「肩に何か付いていますよ」と声をかけてきた。右肩を振り向くと紙屑がついていた。手で払って正面を見たとき愕然とした。そこにあった筈の友人のかばんが消えたのです。僅か2ー3秒の出来事です。マジックだったら拍手喝采の出来映えです。想像するところ、青年が私に声を掛けると同時に、近くで待機していた相棒が瞬間的に机の上のかばんをさらったということに違いない。しかし、いくら思い出しても、振り向く前には相棒の姿は私の視界にはなかった。どこから瞬間的に出てきたのか、これも敵ながらあっぱれというしかない。これはホテルに常駐しているプロ窃盗団の技である。誰でもそうですが、不意に後ろから声を掛けられると、反射的に後ろを振り向く。その瞬間、目の前に置いてある物が瞬間的に視角から消える。プロの窃盗犯はこの一瞬の生理的反射を利用したのです。

やがて友人がトイレから戻ったので一部始終を話してひたすら謝った。幸いかばんの中には高価なものはなかったが、私が差し上げた日本のお土産を失った事を彼は非常に悔やんだ。彼は早速ホテルの警備責任者を呼び、世界的に有名なホテルの警備のお粗末さを指摘し、警官を呼んで事件として処理することを命じた。ホテル側も警察も毎度のことらしく事務的に処理し、型通りの書類を提出しました。その後どうなったか聞いていません。

2010年1月に銀座の貴金属店「天賞堂銀座本店で」で高級腕時計200点(約3億相当)が盗まれました。その後6人の香港人、中国人が逮捕されました。私の今回の経験から、彼らの巧妙な手口からすると、このような国際的なプロ窃盗団にとって銀座の事件はそれほど難しい事ではなかったと思います。海外では貴重品は決して身体から離さない様に注意して下さい。

アントワープ駅

実例2。ベルギーへ旅をした時のことです。パリでの会議の後、列車でベルギーの首都ブラッセルへ行くため、乗換駅のアントワープに途中下車しました。アントワープは日本人にとっても人気の観光地です。アントワープ駅のホームでブラッセル行の列車を待っていた。
 到着時間が間近だったので、大きな旅行カバンと毎日使っている手提げカバンを足元において列車の来る方を見ていた。丁度カバンを背中側に置いた状態で立っていた。しばらくして何気なく足元をみると手提げカバンがない。瞬間、周囲を見回すと5メートルほど先を少年が私のカバンを持ったまま小走りに走っていた。反射的に走ってそのカバンをもぎとって腕をつかまえたところ、”Sorryすみません"と言ったままホームを走り去った。一瞬の出来事です。置き引きにあったのは初めての経験だったので、少年をつかまえた瞬間どのようにして問い詰めるかを考えた。しかし、気にかかるのは、さっきまで立っていた10メートル離れたところに置いたままの私の旅行カバンです。もし、少年が二人組だったら、この少年をつかまえている間に、もう一人が私の大きい旅行カバンを狙うに違いない。もし、あと10秒気が付くのが遅かったら私の手提げカバンは彼等の今日の飯代になっていた。その中には、現金、航空券や会議の書類などなど旅行を続けるための必需品が入っていた。もし、これを紛失したら私にとっては明日からの旅行が出来ないこととなっていたのです。
海外ではプロの置き引きにとって旅行者は絶好のカモです。ヨーロッパの観光地にはこの様な危険な場所が非常に多い。ローマではもっと露骨に金品を狙ってジプシーの子供が正面から体当りしてきます。
しかし、今回の様に、気が付かない内に後ろから迫って来て足元のカバンを持って去るなど思ってもみなかった。
今回の経験から、荷物を足元に置くときには必ず視界の中に置くこと。どちらに目を向けても神経を荷物から離さないことです。漫然と立っているとあなたもいつかは同じ災難に会うかもしれません。その後もヨーロッパには度々行きましたが二度とアントワープを訪れる気にはなれませんでした

バルセロナ大聖堂

実例3。1998年にスペインのアリカンテで国際会議が終った後バルセロナに一泊した。大聖堂の近くの築100年という宿を予約した。 行ってみると、立て付けはかなり古いがそれなりに歴史を感じさせる古色蒼然なる建物でした。チェックインし、部屋に入りひと休みした後でトイレに入った。何気なくドアを閉めて、用をたしてドアのノブを回したが空回りして全く開かない。時間は夕方で薄暗くなって、 バストイレには小さな窓がついているだけです。いくら大声をあげても聞こえそうもない、電話もついていない。人間、パニックになると思わぬことを考えるものである。若しこれでドアが開かなければ、明日部屋を掃除するメードが来るまではこの個室から出られないだろう。明日の飛行機の時間は朝早い。どうしようかとしばらく座り込んだ。最悪の場合は体当たりして木製のドアを破るしか手はないだろう。

色々考えたあげくに、夢中でノブが壊れる程強く上下左右に動かした。なんと突然ドアが開いた。地獄に仏である。大聖堂の前なので地獄にキリストかもしれない。あわててバストイレから出て階段を走り下りてホテルのフロントへ行き厳重抗議した、つもりであったが、フロントの係は「早速修理させます」と言うくらいで全く詫びる様子はない。ひょっとして毎度の事なのかもしれない。 暖簾に腕押しである。既にあたりは真っ暗になり、折角楽しみにしていたバルセロナの市内観光も時間がなくなったが、兎に角暗くなったバルセロナの中心街をぶらぶらして、ホテルに戻ったのは夜11時であった。あれ以来、私はホテルのバスに入る時にはドアを決して閉めず僅かに開けておくことにしています。皆さんも、ヨーロッパの古い町のホテルに一人で泊まるときは、必ずドアを少し開けておくことをお勧めします。

第2話 忘れえぬ国,ハンガリー

これまでに、私は30カ国を旅しました。友人にその話をすると、「どこが一番よかった?」とか、「また行きたい国は?」などと聞かれます。それぞれの国に、それぞれの文化、習慣、言語があり、簡単には答えられません。韓国、中国などの隣国は、日本人と同じ顔つきをしているのでなじみ易い。また、高齢になると長い時間の飛行機での移動はしんどい。その意味で、韓国は2時間で行けるので国内旅行と同じです。

ブダペスト

「最も印象に残る国は?」と聞かれたら、それはハンガリーです。1975年に、ハンガリーでは有名な小児科医であるイシュトバーン・ソラデー博士と偶然フィンランドでの国際会議で知り合いました。私より少し年上の博士は、日本には大変興味をもっていて、私にいろいろと話しかけてきました。それが縁で、博士の英語の専門書を日本語に翻訳したのがハンガリーを知ったきっかけです。ソラデー博士は、ハンガリーで第2の都市セゲット市の市民病院長で、小児における遺伝病の権威でした。

ハンガリーはヨーロッパの中央に位置しており、昔は農業国で東欧の「穀倉地帯」といわれていましたが、最近では機械、化学などの工業立国に変身しました。西部に中欧最大のバラトン湖があり、夏はヨーロッパ各地から避暑客が集まります。ハンガリー人は、見た目はヨーロッパ人と変わりませんが、もともとは、アジア系の騎馬民族が先祖といわれています。1950年ころから社会主義体制になりましたが、1956年に、民主化を要求する国民運動がおこりました。「ハンガリー動乱」です。残念ながら民主化を望んだ動乱は失敗しましたが、社会主義国であるにもかかわらず、国民は極めて民主的で、今では欧州連合(EU)に加盟しています。ハンガリー人は非常に礼儀正しく勤勉で、音楽家リストをはじめ、世界的に有名な音楽家、文化人を輩出しています、また、宗教的には国民の60パーセントがカトリック教徒です。

ハンガリー田園風景

フィンランドでソラデー博士と知り合いになってから5年後の1980年夏に、イタリアでの国際会議の帰途ハンガリーの首都ブダペストを訪れました。ホテルについた翌朝、ソラデー夫妻が見えて、久しぶりに旧交を暖めました。夫妻はブダペストの街の中の古い教会や、古戦場跡などを案内してくれた。私にとっては、1000年以上の歴史を持つハンガリーを知る貴重な体験でした。午後には、車で2時間かけてバラトン湖の近くにある同博士の別荘まで田園地帯を堪能しました。別荘では娘のガブリエラと息子イシュトバーンが待っていました。当時、ガブリエラは高校生で、夏期休暇の一ヶ月をイギリスで過ごし、ハンガリーに帰ったばかりでした。イシュトバンは中学生で、父親と同様に将来は医者になるのが夢でした。夕方近くになり、子供達とバラトン湖畔まで散歩しました。対岸が見えないほど広いバラトン湖に、太陽が落ちる夕暮れの光景は、まさに油絵にあるヨーロッパの風景でした。

バラトン湖

別荘に戻る途中、村の小さな教会の中に入りその荘厳さに驚きました。小高い丘の上に建つこの教会は、恐らく何百年かの歴史を持つカトリック教会です。教会から出て、イシュトバーン君が「この辺一帯は古戦場なんだよ」と話していた時、偶然に掘り出されたばかりの人骨が無造作に道ばたにおかれていたのが印象的でした。30年近く経ったいまでも鮮明に覚えています。夕餉では、ハンガリーの名産であるトカイワインとピーマンを使ったパプリカ料理で私を歓迎してくれました。翌朝、敬虔なカトリック教徒である一家と一緒に、昨日訪れた村の教会へ日曜日のミサに出かけました。教会の中は、地元の人々に加えて、多くの避暑客であふれていました。別荘に戻って朝食をとった後、ソラデー博士は勤務先の病院で用事があるとのことで、自宅のあるセゲット市へ帰りました。その日の午後、私は家族と名残を惜しみつつ、列車でブダペストのホテルに戻りました。

 その翌年、ソラデー博士が心筋梗塞で急逝したことを奥様からの手紙で知りました。小児科医、科学者としての高い見識や、子供や奥様に対する愛情など、今でもバラトン湖畔の別荘での一家団欒の光景を忘れることができません。私にとって、ソラデー博士は東欧での初めての友人だっただけに、彼の想い出は一生私の脳裏に残るでしょう。私の家の居間には、ソラデー夫妻が来日したときにお土産に貰った小さい陶器の一輪挿しが、今でも毎日花を添えて飾られています。ブダペストには、その後2回行きましたが、教会や国会議事堂、戦場跡などを散策すると、その度にソラデー一家のことを想い出します。

第3話 湖の国フィンランド 

2007月中旬に国際会議に出席のため久しぶりにフィンランドを訪れました。10時間の空の旅の後首都ヘルシンキ空港に着き、翌日、特急でヘルシンキから2時間かけてタンペレに着いた。タンペレはフィンランド第2の都市です。私はこの国が好きで、ヨーロッパへ行った時など日程に余裕があると度々訪れました。旧首都のトルクはその歴史的遺産が多く、トルク城と古いカテドラルが圧巻です。

タンペレ

タンペレは二つの湖に囲まれた静かな文化の町です。また、この町はフィンランド屈指の工業都市です。フィンランドの人口密度は日本の二十分の一です。日本は一平方キロメートル当たり333人ですが、フィンランドは17人しか住んでいません。フィンランドの7月、8月は白夜で夜11時になっても外で新聞が読める明るさです。タンペレが世界的に誇れるものの一つは、市立図書館の地下にあるムーミン博物館です。ここは、ムーミン発祥の地で、ムーミン協会は世界各国にその支部を持っています。ファンタジーから生まれたムーミンの話は世界中の子供のあこがれです。フィンランド人は温和な性格で、これはムーミンに根付いているかもしれません。

フィンランド人は7月、8月の2ヶ月間の休暇のために1年間働いています。どこの家庭でも一ヶ月以上の休暇をとって家族と共に旅行します。フィンランドの夏は、昼間は20度を超えますが、深夜や夜明けなどは外気が10度まで下がります。9月に入ると日が短くなり冬に向かって暗い毎日が続く。フィンランドの人々にとっては7月、8月が一年中で最高の季節です。 

タンペレ

  1週間の会議が無事終了した翌日、タンペレから再び特急でヘルシンキへ戻った。駅の切符売り場の窓口の女性が、「年齢により運賃が割引されますが希望しますか」と聞いた。65歳以上は運賃が半額になるとのこと。外国人でもその恩恵に浴すことが出来るのです。私は間髪を入れずパスポートを見せて割引してほしい旨を伝えたら早速12.2ユーロの切符をくれた。ここで疑問。なぜヘルシンキからタンペレに来るときにヘルシンキ駅の切符売り場では何も聞かなかずに24.4ユーロの切符を渡したのか。ひょっとして65歳以上にはとても見えなかったのか。後でフィンランドの友人に聞いたら、それは申告制なので本人から言わない限り割引にはならないとのことで納得した。

ターリン

ヘルシンキで一泊した翌朝、私は急にフィンランドと海を挟んだエストニアを観光したくなった。私の旅はいつもこんな具合で、突然予定を変えることが少なくない。ターリンは2年前に旧ロシアから独立した小国エストニアの首都で、ヘルシンキから高速艇で90分程の距離です。ヘルシンキの友人に聞いたところ、ターリンへの船は年中満員だそうである。混む理由は観光だけではない。ターリンは酒(特にウオッカなど)の値段がフィンランドの十分の一で、酒飲みにとっては、船賃を差し引いてもヘルシンキで買うよりもはるかに安上がりだそうだ。そのせいかヘルシンキの市内では昼間から飲んだくれのアル中の男が多く見られた。30年前に初めてヘルシンキへ行ったときには見られなかった光景である。ターリンに一泊して再びヘルシンキに戻った。翌日フィンランドの涼しさから真夏のドイツへ移り、3泊した後3週間ぶりに猛暑の日本に帰った。

第4話 フィレンツェでの恐怖

1998年に国際会議でイタリアのフィレンツェへ行った。街全体が美術館といわれる程ルネッサンス文化がそのまま保存されているのがこの街である。午後ホテルにチェックイン後、急いでウフィツイ美術館へ行った。フィレンツェは2回目だが、前回来たときには時間がなくて見そこなった。さすがに最も人気の高い美術館だけあって、世界中から集まった観光客が長い行列をつくっていた。1時間ほど待ってようやく中に入った。2時間近くすばらしいルネッサンス芸術を満喫してホテルへ戻った。その夜11時頃に突然停電となった。間もなく館内放送で”電気系統の故障で停電します”とのことです。
何かの故障ですぐ回復するだろうと思ったが1時間経っても回復しそうもない。その内かすかに灯っていた緊急用の赤い非常灯もついに消えた。トイレの水も流れなくなった。部屋の中はこれまでに経験したことのない漆黒の闇である。窓からの光も入らない。窓越しに街の中をみたら民家の灯りはすべて消えて街全体が真っ暗闇でした。たまに近くの道路を通る車のヘッドライトが一瞬周囲を照らした。部屋の中を手探りで廊下へ出たが、古いホテルである上に、運悪く私の部屋は3階の一番奥で何処に階段があるかわからない。目の前に手をかざしても見えないくらいの闇である。エアコンも止まって部屋の中はサウナ状態である。自称「閉所恐怖症」と「心臓神経症」の私にとってこれ以上の不安はない。心臓がパクパクする。窓からかすかに風が入るのがせめてのなぐさめであった。なすすべもないままじっとベットの中で時間を過ごした。

一晩中眠ることも出来ないまま不安な一夜が過ぎてようやく明け方を迎えた。兎に角ホテル内の様子を知りたくて、未だ薄暗い廊下をたどりながら1階に降りた。フロントにはローソクのあかりが灯り、時計をみたら午前6時である。レストランでは早めにチェックアウトする人たちがローソクの下で食事をとっていた。電気、水道などのライフラインがすべて使えないので、テーブルの上にあるのはパン、果物とミネラルウオーターくらいである。フロントの夜勤のおじさんに回復の見込みを聞いたが何もわからないという。

間もなく地元新聞の朝刊がきてその原因がわかった。イタリアでは夏場は電力不足のため、ローマ、ミラノ、フィレンツェなどの大都会ではとなりのフランスから電力を供給して貰っている。しかし2—3日続いた猛暑のため、エアコンの使用が異常に増えて供給量が間に合わずイタリア全土が停電になったのだという。国を挙げての停電は日本では考えられないが、夜中の停電中に地元の人は外に出て騒ぐこともなく、慌てる様子もないところをみると、どうやら真夏の停電には慣れているらしい。朝8時頃になりようやく復旧し、町の中はなにごともなかった様に日常の生活にもどった。今回の経験から学んだことは、夏場のイタリアへの旅行には是非懐中電灯かローソクを持参することをおすすめしたい。

第5話 テキーラの魔力

1998年11月に国際会議で初めてメキシコを訪れた。昔からメキシコの文化や慣習に興味を持っていたが、中々その機会がなかった。そしてついにチャンスが到来した。成田から米国ロスアンジェルスまで約9時間、さらに乗り換えてメキシコシ市まで3時間の旅である。メキシコ上空にさしかかった頃、眼下の視界が突然見えなくなった。北京の上空でも同じ経験をしたことがある。ひどい大気汚染で街の上空はスモッグで覆われていた。開発途上国に共通の現象だ。無事着陸し入国審査も終わった。荷物が出てくるのを待ったが最後の一つになっても私の荷物はない。早速近くの「荷物苦情カウンター」へ行き、航空券の裏に貼ってある荷物受取券を係員にみせた。「お客さん、この荷物はグアダラハラ行きになっていますよ」とのこと。そうだ、私の最終行先地は、メキシコ市ではなくグアダラハラだったことに気がついた。初めてのメキシコなので興奮ぎみだった。

グアダラハラ行きのゲートへ行ったら、搭乗締め切り5分前。「急いで乗って下さい」の地上係員の声であわてて飛行機へ入った直後ドアがバタンと閉まった。私が最後の搭乗客だった。しかも私の搭乗を待ったので予定時間より遅れたらしい。乗客のきつい視線を一斉に浴びながら急いで席に着いた。客室乗務員の「ベルトをきちんと所定の位置に締めて下さい」の放送と同時に飛行機は動き出した。離陸時の航空機内の放送内容はどこの航空会社も世界共通なので、私が話せないロシア語でも、ポルトガル語でも英語と同じ筈である。しかし恐いのは緊急事態のときだ。突然の気流の乱れや、「エンジン故障で不時着します」などの放送がポルトガル語だけで流れたらどうしよう。。しかし心配する事はない。そんなときには乗務員はうるさい程一人一人をチェックするので安心。

グアダラハラ

さて、メキシコ市から1時間近く飛んで無事グアダラハラ空港に到着。荷物も受け取ることが出来た。グアダラハラ空港からタクシーで約30分でホテルに到着。すでに夜8時である。今日は朝から満足な食事をしていない。部屋に荷物をおいて早速近くのレストランを探した。ホテルの隣に「寿司バー」の看板をみつけた。しかし、入り口の赤い提灯が何とも怪しい。私の経験では、この手の店は大抵地元の板前と称する男が似ても似つかない寿司を出す事が多い。ぶらぶら探したが他に見つからず結局ホテルに戻りレストランで遅い夕食をとった。

翌日は朝から夕方まで会議が続き全員くたくた状態だった。夕方7時から11時まで地元の大学の友人が夕食会に招待してくれた。レストランに着くと、メキシコの友人たちはすでに食前酒で賑わっていた。「上等のテキーラだよ」と薦められて一口飲んで大変。下戸の私にとっては、口の中が火の海になるくらい強い。しかし、会議の仲間は疲れを忘れた様にテキーラをぐいぐい飲んでいる。「テキーラはとても強すぎて飲めない」と言ったら、「それじゃ甘いカクテルを飲んだらいい」といって出されたのが「マルガリータ」である。

これとてテキーラをベースにしているので強い事には変わりはないが、甘いのでつい飲んでしまった。メキシコにはテキーラに合う肉料理がある。それは絶品の味だった。夕食会もテキーラの酔いがまわるにつれて、会議に出た連中の質問合戦が始まった。厳しい会議の後では食事の席で毎度こんなことで疲れを癒す。ついに順番が私のところへ回ってきた。「ところでテツオ」、口火を切ったのはイタリア出身の陽気な男である。「2年前に家内と京都へ行ったときにゴールデンテンプルを見て感激したよ」。どうやら金閣寺のことらしい。欧米人は日本の風俗や習慣、歴史に驚く程興味を持っている人が多い。さすがに今の日本にちょんまげの侍がいるとは誰も思っていないが、日本は欧米人からみると彼らとは別の世界の様に見えるらしい。突然フィンランドの友人が聞いた「京都にはいくつお寺があるの」。さて皆さんはご存知ですか。たまたまメキシコへ行く1ヶ月前に京都の観光ブックを読んでいた。「約1600でその中で観光に解放しているのが約100もないと思う」私は自信を持って答えた。質問が続く。「京都が昔日本の首都だった事は知っているが、いつ東京に移ったのか」、「将軍と天皇は何が違うの」、「日本人はみな仏教徒なのか」。いろいろな質問の中で、彼らは酒の席で政治の話はタブーであることを心得ていた。

かつてベストセラーになった藤原正彦教授の「国家の品格」の中で、「初等教育では国語を徹底的に固めて、歴史や伝統文化を教え込むことが必要だ」とあった。私も全く同感である。海外に行くとそれを痛感させられることが多い。質問は夜中まで果てしなく続いた。「それでは今夜はジャパンナイトに乾杯して解散しよう」会長の音頭で全員テキーラを飲み干した。私にとって、今回の旅行でメキシコの初印象は強烈なテキーラの魔力だった。

第6話 小咄の一つでもどうですか

皆さんもご存じの様に外国の連中はジョークが大好きです。中でもアメリカ人は子供の頃からパーテーや日常会話の中でジョークの一つも出来ないと欠陥人間と思われる位大変なものです。したがって、彼等が一人前になるころには身についたジョークが苦もなく出て、私の様に無芸な者にとっては仕事以上にうらやましい限りです。 日本でも最近はやたらジョークを連発する人が増えてきましたが、中には寒気がする位つまらない駄洒落もあって中々スマートなジョークには程遠いものが多いです。小咄も彼等は得意です。大学の教授や企業の役員などになるには小咄、ジョークの試験があるのではないかと思われる位粒揃いです。こんな時に、アジア 諸国、中でも、日本、韓国、中国などの面々は中々苦労します。

今回の会議に参加した友人達は、その道では各国を代表するかと思われる位の百戦錬磨の粒ぞろいです。2日間の理事会が終わり夕食会が始まり、宴会が半ばにさしかかった頃、突然小咄合戦をやろうということになった。そして私のところにも順番が回ってきました。若いころは落語を聞く事が唯一の趣味で、新宿末広亭や上野の鈴本演芸場などを一日ではしごして回ったりする位好きだったのですが、今回は英語で小咄をしろとのことです。とても即興で出来る筈もなく、次回の理事会までに考えておくことでその場は許してもらった。6ケ月後の会議でいよいよ披露の番がきました。ここではそのときの小咄を楽しんで下さい。

ある村に人も羨む美しい娘さんがいました。村の年頃の男女が集まって毎夜祭りの相談をしました。村長の息子がその娘さんにぞっこん惚れ込んで、ある日父親にそのことを伝えました。

  1. (息子)メアリーさんとどうしても結婚したいのですが
  2. (父親)それは許すわけにはいかん。お前には隣村の???さんが許嫁で決まっているではないか
  3. (息子)そこをもう一度考えて下さい。
  4. (父親)いくらお前が頼んでもそれだけは許すわけにはいかん。実はあの娘はわたしが若い頃に知り合った女性の子供で、お前とは異母兄弟なのだ。これで私が許さないことがわかっただろう。このことはお母さんには内緒だから言うんじゃないぞ。息子はそれを聞いて一時諦めましたが、時間が経つにつれて前以上に娘さんのことがどうしても忘れることが出来ず、ついに母親に相談しました。
  5. (息子)メアリーさんとどうしても結婚したいのでお父さんに頼んだら断られました。理由はこれこれです、と父親から聞いたことをそのまま伝えました。
  6. (母親)わたしは今迄お父さんが他の女性とそんな関係があったなんて一度も聞いたことがない。とんでもないことです。でも、お前がどうしてもその娘さんと結婚したいなら、お父さんがどう言おうと結婚しなさい。私が責任をもって応援するから。息子は母親の言葉を聞いて涙を流して喜んだ。
  7. (息子)では早速明日にでもメアリーさんに話をします。
  8. さて、皆さん!どうして母親はいとも簡単に息子の願いを聞き入れたのでしょうか。
  9. (母親)実は、お前は今のお父さんの子供ではないのです。昔、隣村の青年と知り合って生まれたのがお前です。だから、あの娘さんとお前は赤の他人です。これはお父さんには内緒だからね。
  10. 家族会議の結果めでたく息子は件の娘さんと結婚しました。めでたしめでたし。

第7話 北海の贈り物

ベルギー・ゲント市

ヨーロッパの国々は地続きなので国際列車が発達しており、また、飛行機でも2時間もあればほとんどの国へ行くことができます。1998年にベルギーのゲント市にある友人の研究室を初めて訪れました。ゲント大学はヨーロッパの中で長い伝統を持つ有名大学の一つです。彼とは国際会議で偶然知り会い、久々の再会で話がはずんだ。夕暮れになった頃、「ワイフを呼んで夕食へ行こう」と外へ出た。彼の奥さんは台湾出身で、同じ大学の研究者です。

16世紀ににぎわった埠頭には、年代によって異なるギルドハウスが残り、その調和した街並みこそが、ゲントを中世の美しい街にしていた。20分程歩いて地元ではよく知られたレストランに入った。体育館程の広さがあり、彼の説明によると、ここは古い倉庫を改装したものだそうだ。「今日はとびっきりおいしいものをご馳走しよう」彼は店人に地元の言葉で早口に注文しました。しばらくして目の前に出されたのはバケツ程もある大鍋に山盛りにされたムール貝の白ワイン蒸しだった。「これはベルギーの名物だよ」彼はなれた手つきで貝を一つ一つ開けた。空になった貝殻をピンセット代わりにして、他の貝の身をつまむのがコツだそうだ。私にとっては初めて見る食物でした。最初は珍しいのとその量に圧倒されて恐る恐る食べていましたが、鍋の底が見えるころにはすっかりそのとりこになった。その味は私にとってはこれまでに経験した事のない絶品でした。

ブルッセル市庁舎

ムール貝

2002年にアムステルダムでの会議の後一日ブルッセルで遊んだ。ブリュッセルは欧州連合EUや北大西洋条約機構NATOの本部があり、名実共に国際都市ですが、私にとってのブルッセルは政治よりは食の街です。私が訪れたのは日曜日とあって、市庁舎や王の館で囲まれたグラン・プラスは観光客で溢れていた。そこから1−2分の所にはレストランが密集しており、そこが今日の目的地です。未だ夕食には早いせいかそれ程混んでなかった。

私はゲントの友人の言葉を思い出した。「ブルッセルへ行くことがあったら是非ムール貝の店へ行ったらよい」。威勢のよい呼び込みに誘われて一軒の店に入り早速ムール貝のワイン蒸しを注文した。間もなくゲントと同じくバケツ程の容器に山盛りのムール貝が目の前に差し出された。不安と期待をもって口に運んだ瞬間、みるみるゲントでの記憶が蘇った。思わず「いやあ、これだよ!」と心の中で叫んだ。私はゲントの友人が教えてくれたように、空いた貝殻を器用に使うことも忘れなかった。北海産のムール貝の味は正に絶品であった。周囲を忘れて夢中でムール貝に取り付かれた後、しばらくして顔を挙げると、先程までまばらだったレストランの中の客は店にあふれていた。食いしん坊の私にとって、美味なものに出会ったときの幸せは格別幸せを感じる。ムール貝はベルギーに限る。一人で納得しながらレストランを後にした。

第8話 戦争と宗教の国イスラエルへ

エイラット

1998年1月にイスラエルのエイラットで国際会議があり、はじめてイスラエルへ旅をしました。イスラエルは昔から戦争が絶えない国であること、三つの宗教が同居している珍しい土地であることもあって、物好きな私にとっては大変興味をもって成田を出ました。

ドイツのフランクフルトで一泊後、翌日イスラエルのテルアビブの空港で、今回の会議に出席する欧米の仲間と久しぶりに再会しました。そこから会議が開催されるエイラット行きに乗り換えるため搭乗口へ行って驚いた。搭乗のための検問が異常な程厳しい。そこでは十数項目にわたる質問を一人15ー20分かけて行っていた。

(1)どこから来たか、(2)どこへ何の目的で行くか、(3)その会議の内容は何か、(4)出席者は何名か、(5)会議での主な議題は何か、(6)その会議でどんな効果が期待されるか、(7)その会議は誰が主催するのか、(8)今回の旅行は一人かグループか、(9)ツアーの責任者はだれか、(10)何かお土産を持っているか、その価格は(11)ホテルの名前は、(12)職業は何か、(13)イスラエルには何日間滞在するか、などなどである。

この質問攻めも無事通過してようやく搭乗した。1時間後エイラット空港に着きました。ここはイスラエル国の最南端で唯一紅海に面した港町です。街の中は世界中からの旅行客で賑わっていた。

エイラットでの2日間の会議は予定通り終了し、翌日は朝8時半にホテルを出発してエルサレムへ3時間かけて車で移動しました。ガイドの話では途中広い砂漠を通るので強風に注意する様にとのこと。その場所に行ってみると正に荒野と岩山が続き、この砂漠でキリストが受難したと伝えられている乾燥荒涼な砂土の荒地でした。

死海

マサダ要塞

途中、よく知られている観光地の死海では湖で身体が浮く経験をした後、マサダ要塞を見学しました。ここはイスラエルの国の中ではエルサレムに次ぐ人気の観光地です。2001年にはユネスコの世界遺産になりました。2時間程ここでローマ時代の遺跡を堪能し、エルサレムのホテルに着いたのは午後6時頃でした。

1月のエルサレムの朝は寒い。翌日はシンポジウムを開くホテルに移動し、参加者100名近くの中で予定通り開始されました。私が司会をして午後の部が始まって間もなく、突然一部の参加者がゾロゾロと外へ出始めました。何事が起こったかとびっくりして地元の友人に聞いたところ、いま雪が降り始めたので、列車や車が動かなくなるかもしれないので参加者は帰宅し始めたとのこと。気候が急変すると学会どころではなく早々に家に帰るという。風土が違う国では考えることも随分違うものだと痛感した。シンポジウムは無事終了して外へ出ると、雪が積りホテルに帰るにもタクシーもなく往生しました。講演の途中でぞろぞろ帰宅した参加者の予見が見事に適中した一日でした。

エルサレム旧市街

エルサレムの市内は旧市街と新市街に分かれており、旧市街はイスラム教地区、キリスト教地区、ユダヤ教地区に画然と分かれており、その境界は極めて明確に区切られています。住民もそれぞれの宗教の地域内で生活しており、お互いに犯すことはない。しかし、最近は宗教間の対立で住民の紛争が絶えなく、あの荘厳な宗教の町が戦火の中にあるのが残念です。日本の様な単一宗教の国では中々理解できないことですが、西洋の歴史の中では宗教の争いが命をかけた戦争にまで発展した例は珍しくない。

ここでイスラエルの三つの宗教について簡単に解説します。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はユダヤ教、キリスト教、イスラム教はすべて一神教で、それぞれの信者は唯一の神を祈ります。それに対して日本では、クリスマスイブの夜はどんちゃん騒ぎをし、新年は初詣で神社へ、仏事のときはお寺へ行くなど、神社仏閣おまけに教会まで含めて八百万の神の国です。

イスラム教の信者は一日5回、聖地メッカの方角に向かって礼拝することが義務付けられています。彼等は世界の何処にいてもひざまずき、メッカに向かって礼拝します。土は世界何処までも続いているので、同じく膝をつくことによってイスラム教信者同士が兄弟としての連帯意識を持つというのが彼らの信条です。ちなみに、私が大学に在職中に留学生としてイスラエルから来た学生は、研究室の前の廊下のすみに布切れを敷き、一日5回の礼拝を絶やしませんでした。1年1回の断食(ラマダン)の月には、日の出から日没までは絶食、絶水します。日没後に1日1回の食事をとりそれが1ケ月続く。ラマダンが終わった日には盛大なお祭りが行われます。

嘆きの壁

ユダヤ教の信者が多く集まるのはイスラエル市内の「嘆きの壁」です。ここは一年中世界各国からの観光客でごったがえしています。ユダヤ教の信者は独特の帽子をかぶっています。私も「嘆きの壁」に触れようとしたら、そこにいた案内人らしい人に紙製の帽子を渡されました。これをかぶらないと壁にふれることは許されません。壁に続いた洞窟の中では多くの信者が敬虔な祈りを捧げていました。

聖降誕教会

今回の旅の中で私の最大の関心事はべツレへムを訪れる事でした。イスラエル滞在の最後の日は雪も止み晴れた朝を迎えたので、タクシーで40分ほどのべツレへムへ行きました。ここはキリスト誕生の地で、世界中からキリスト教信者が集まっています。日本でも大晦日の夜にこの場所からの中継を見る事があります。ここでの圧巻は、2000年前にキリストが誕生したと伝えられている洞窟のある聖降誕教会です。また、この一角にはギリシャ正教とキリスト教の聖カテリナ教会の建物が隣り合っています。違う宗教の教会が隣り合って、しかも何の不自然も感じないのは、宗教に対する共通の考え方があるからでしょうか。感慨にふけている間に2時間が過ぎ、あわててタクシーでエルサレムのホテルに戻りました。

翌朝、イスラエルから出国するためにテルアビブの国際空港へ行って驚きました。空港のロビーには多くの兵隊が警察犬を連れて隅々までチェックしています。正に厳戒体制でした。私が食事のためにテーブルから離れたところにトランクを置いたら、「これは誰の持ち物か」と兵隊がその近くの人々に聞いて回っているのには往生しました。以前からイスラエルへ行く機会を狙っていた私にとっては、今回の旅行は正に生涯忘れられない経験となりました。

第9話 トロの災難

フィリピン

なんといっても海外旅行での病気ほど心細いものはありません。今回は2005年の正月にフィリピンへ出張した時の話です。

帰国前日の朝、日本から単身赴任している現地の友人に誘われて近くの市場へ行き、魚屋のオッサンの声に誘われてそこに並べてあったトロの切り身を食しました。

1時間程ぶらぶらした後友人と別れてホテルに入り、一休みした直後、ひどい嘔吐と下痢が始まった。のどがからからになりホテルの冷蔵庫の水を飲み干し、それが殆んど胃腸を洗い流す位の激しい下痢が続きました。旅行かばんの中にあった下痢止め「正露丸」を飲んだが何の役にも立たず、一晩中トイレとベットの間を往復しながら朝を迎えました。今回の出張はマニラにある医療センターの研究所との共同研究の打ち合わせだったので、そこの病院での診察も考えたのですが、何日入院するか皆目見当がつかないので断念しました。翌朝、意を決して脱水状態のままマニラの空港を後にしました。機内は幸いにも空席があり、客室乗務員の計らいで飛行機のエコノミークラスの座席三人分に横になってフラフラ状態で日本まで帰ってきました。

皆さんは重度の脱水状態を経験したことがありますか。直立することが出来ません。まして歩く事も出来ず、飛行機の出口で航空会社の乗客係が用意してくれた車いすで運ばれました。私にとって車いすは初めての経験でした。入国審査も乗務員用のゲートを通って簡単に済ましてもらい、空港の診療所に直行しました。早速点滴を2本注入し、医師から「明日病院で検便をする様に」との指示があってその日は帰宅しました。医者の話では、あと半日この状態が続いたら心臓、脳に血栓ができて重症になっていたかもしれないとのことでした。

 翌日、診療所の医師が紹介した病院へ行き、保健所で検便した結果真性コレラと判定され、早速近くの隔離病棟のある公立病院まで救急車で運ばれました。救急車も生まれて初めての経験でした。翌日の新聞の地方版に、「市内で20年ぶりにコレラ患者発生」との記事が出ました。幸い名前が出なかったのでほっとしましたが、20年振りの患者との記事には本人が一番驚きました。病院で診察した医師は早速抗菌剤(抗生物質)を処方し、それを飲んだところ驚く程効いて、2−3日で嘔吐、下痢が見事に消え、コレラ菌も検出されなくなりました。

これまで殆どくすりの世話になったことのない私にとって、くすりがこんなにも劇的に効くことを初めて経験しました。医師の話によると、コレラの様な法定伝染病の場合、菌が検出されなくなっても2週間は退院出来ない規則になっているとのことで、食欲旺盛な私にとっては何とも退屈な日々を過ごしました。ちなみに、私と一緒にマグロを食した現地の友人は何でもなかったとの事ですので、私の場合、会議や旅の疲れで体力が消耗していたせいかもしれません。

クラビット

あのとき以来すっかり抗菌薬の信奉者となり、海外旅行のときは必ず持ち歩いています。中でも 東南アジアへの旅行には必需品です。皆さんも東南アジア方面へ旅行するときは、是非知り合いの医者に頼んで持参して下さい。その名前は第一三共(株)から発売されているクラビット(商品名)です。通常一日一回食後500mg一錠を飲みます。最近は同じ効果を持つ同類の抗菌薬(ニューキノロン系)が病院で使われています。

第10話 韓国での新たな発見

仁川国際空港

韓国は私にとってこれまで最も多く訪れた国です。最初に訪れたのは1991年でこれまでに100回以上ソウル、釜山、清州、済州島などいろいろな都市に行きました。韓国までは2時間の飛行ですので国内と変わりません。沖縄へ行くより短い時間です。近いとはいっても外国です。空港では米国、ヨーロッパへ行くと同じ手続きをしなければならないのが難点です。昔はソウル市内の金浦国際空港が空の玄関口でしたが、現在は仁川国際空港が国際便の主な発着地になり、欧米へ行くときにはアジアの主要空港の一つになりました。最近、羽田から金浦空港までの直行便が就航されているので東京在住の人には便利になりました。仁川空港からソ−ル市内までは空港バスで約1時間です。ソウル市内はいつでもひどい渋滞です。私の知る限りタイのバンコックに次いでアジアで2番目に渋滞がひどいです。中でもソール市内では最大の川である漢江(ハンガン)にかかる橋を渡らなければならない時には、予定の時間より30分は早めに出る事が必要です。

ソウル市内には便利な地下鉄が網の目の様に走っています。第1号線から第9号線まであり、第2号線は東京の山の手線と同じくソウル市内の環状線です。ソウル市内なら何処へ行くにも地下鉄を利用すると便利です。しかし、問題は地上に出た時です。総ての表示が韓国語なので、地図がないと自分の行き先を見つけるのが大変です。幸いなことに、最近では市内でも英語の看板が増えたので以前に比べてどこへ行くのにも楽になりました。韓国の看板表示は大統領の方針で変わるといわれています。私は20年以上前からソウルの看板に悩まされました。昔は日本語の看板が多かったのが、次に行ったときには選挙で当選した新大統領の方針で日本語看板が消えて韓国語一色になりました。最近では急に英語の看板が目立つ様になりました。これは明らかに韓国の政治を反映しています。

済州島

2010年11月2日から6日まで一年ぶりに済州島で開催される二つの会議に参加しました。ソウルの冬は北海道並みの寒さですが、済州島は韓国のハワイと呼ばれる様に、一年中気候が温暖で、韓国全土から大勢の観光客が訪れます。韓国では新婚旅行といえば済州島です。したがって、ソウルと済州島間には一日30便以上の飛行機が運航しています。ここには韓国の民俗村があり、都会では見られなくなった韓国の古い伝統や昔の住居などが保存されています。日本人の団体も多く見られます。

済州島での会議が終わって多くの参加者はソウルに戻りました。翌日は特に用事がなかったので地下鉄で明洞ミョンドンへ行きました。これまで地元の友人に連れられて地下鉄に乗ったことはありますが、一人で乗るのは初めての経験です。その上、明洞へ行くためには途中で乗り換えなければなりません。自動販売機の近くにいた高校生に切符の買い方を教えてもらい、途中の忠武路駅で3号線から4号線に乗り換えて無事明洞駅に着きました。これまでの私の経験では、海外で困ったときには恥ずかしがらないで周囲の人に聞く事です。言葉が通じないときには筆記やジェスチャーで間違いなく通じます。

明洞

明洞は銀座と同じく韓国流行の発祥地です。大規模なデパートが密集しているだけでなく、国内、海外の一流ブランドの店が集まっています。絶えず活気と熱気があふれ、1日中賑わっています。私は若者があふれている雑踏の中を一時間程ぶらぶらしましてホテルに戻りました。

宮廷(高級)料理レストラン

その夜韓国の学会幹部が「宮廷(高級)料理」のレストランに招待してくれました。レストランの内部は昔風の韓流の建物で、屏風、ふすま等の絵は正に朝鮮王朝時代のものでした。李王朝時代全国から集められた旬の素材を使って、 腕の良い宮廷料理人が王様のために用意した御膳です。王様がまず召し上がり、美味しいと評判になると、両班(ヤンバン・貴族階級) の人たちにそれが伝わり、 やがては一般庶民の料理となり、韓国の食文化として普及していったのです。数十種類の料理からなる韓国伝統の定食。宮廷料理を現代風にアレンジし、地方の郷土料理などと複合させたメニューです。前菜、メイン、副菜、食事、デザー トと続くコース形式で提供されることが多く、全体的に上品で淡白な味わい。一般の食堂より価格が上がりますが、優雅な食事を堪能できます。その夜は昔の朝鮮王朝時代の料理を堪能しました。

宮廷(高級)料理

今回の旅では、私にとって初めて宮廷料理を食し、一人で地下鉄に乗ったことなど新しい発見の連続でした。

第11話 日本人が大好きな台湾

台北駅

台湾は一年中熱帯気候と思われていますが、本当は夏期と冬期があります。しかし、いくら冬期でもさすがに降雪はないですが、台北では日が沈むと急に寒さが強くなります。台北市内、特に台北駅の周辺には日本の飲み屋、牛丼屋、カラオケ屋が日本と同じくらい軒を並べています。「セブンイレブン」は今やアジアのどこでもみられ、台湾では恐らく日本と同じ位の数があるものと思います。地元では評判よく繁盛しているとのことです。

台湾は行政上は中華人民共和国(中国)の台湾省ですが、台湾居住者は中国本土へ行くときには特別な許可証が必要ですので、外国と同じ様なものです。

国立台湾大学

台湾は親日家が多く、75歳以上の人は日本語で教育されたので日本人と変わらない日本語を話します。私が知る限り世界中で日本語が最も通じる国です。ホテルや買い物でも言葉で不自由しません。台湾の人々は大変勤勉で、教育制度が行き届いています。私が千葉大学薬学部に勤務していたときには台湾から多くの留学生がいました。彼らは皆さんが非常な親日家で、すぐに日本の生活にとけ込み日本の学生とも大きな友好関係にありました。彼らの中には、日本での大学院生活が終わってから日本で就職したり、米国に移って成功している人も多くいます。台湾の大学の頂点は国立台湾大学で、その前身は昔日本が台湾を統治していた頃の台北帝国大学です。したがって、これまでの台湾の大学での教育は日本の影響を大きく受けました。しかし、最近では米国から入る情報が大きく影響しています。また、アジアの国では珍しいですが、台湾政府は米国ですばらしい業績を挙げた台湾出身者を優遇して国の主要ポストに迎える制度があり、多くの分野の人々がその制度で母国に戻って台湾のために貢献しています。日本でもこの様な制度があったら、かつて頭脳流出として日本を離れた優秀な研究者が母国に戻る機会が出来ると思います。

圓山大飯店(グランドホテル)

台北市内には昔の日本統治時代の建物が残っています。かつての台北帝国大学医学部のれんが造りの建物の一部は、現在の台湾大学医学院の一部となって残されています。ここの医学部、薬学部には私の友人が数人教授として勤めていますが、彼らは非常に勤勉で昔の日本の教授像を思い出させます。かつて台北で一番の高級ホテルであった帝国ホテルは、現在「圓山大飯店(グランドホテル)」としてVIPの宿に使われています。一度泊まった事がありますが、素晴らしい設備に驚きました。また、台湾には日本と同じく多くの温泉地があります。数年前に台湾に行ったときに、地元の友人に誘われて台北に近いところの温泉へ行ったことがあります。脱衣場から温泉の湯舟まで日本と殆ど同じで、国内の温泉にいる気分でリラックスする事ができました。

台灣高速鐵道

台湾の新幹線は日本人として是非乗ってみて下さい。台灣高速鐵道(台灣高鐵)に使われている漢字が、「台湾高速鉄道」ではなく、今では日本で使われていない旧漢字「灣」「鐵」が使われているのが年長者には大変懐かしく感じました。台灣高鐵は日本の新幹線の車両とほとんど同じで、車両の内部の標識(トイレ表示、座席番号など)までもが新幹線と全く同じです。驚く事に車内の電光掲示板や英語のアンアウンスもそのままです。その上、発着の時刻の正確さは日本と同じく、欧米の観光客にとっては大きな驚きです。高雄—台北間は、日本と同様に旧こだま型各駅停車とのぞみ型が走っており、2時間で約6,000円です。すべて指定席で自由席がないのが難点ですが、台湾の人々にとっては大変な人気です。

2009年9月に高雄医科大学薬学部を訪れました。ここには昔千葉大学薬学部に留学した人が教授として勤務していました。薬学部での講演の後で夕方私のために歓迎会を開いてくれました。10人程の教授が集まりましたが全員が日本に留学した経験があり、皆さんと日本語での会話が出来て楽しく過ごしました。台北へ帰るときに高雄の左営駅から新幹線に乗り、ノンストップで約1時間30分後には台北駅に着きました。聞くところによる、台灣高鐵は当初フランスの業者により話が進められていましたが、ある日突然当時の李登輝総裁の一言で日本に決まったそうです。李総統は京大農学部の出身で、大の日本びいきなのが関係しているかもしれません。兎に角、台湾は日本人にとって全くストレスを感じさせない外国ですので是非旅をされる事をお勧めします。

第12話 くつろげる国タイへ

スワンナプーム国際空港

タイは私の好きな国の一つです。理由は単純で、暖かくて果物がおいしく、人柄が温和でリラックス出来る国だからです。7年ぶりに2010年8月9日から15日までタイの首都バンコックへ旅をしました。私が勤務していた千葉大学薬学部と、バンコックの国立チュラロンコン大学薬学部、国立チェンマイ大学薬学部が姉妹校だった関係で度々訪れました。また、私が関係していた国際毒性学会連合の会議などを含めてこれまでに20回以上タイを訪ねています。いつでも迎えにきてくれたタイの友人の話では、6年前にバンコック中心部から約30キロのところに新設されたスワンナプーム国際空港は、それまで使われていたドンムアン空港の約5倍、成田空港の約3倍の敷地を持つアジアのハブ空港です。

ワットポー

バンコック市内は車の渋滞がひどいので有名です。バンコックの大学に勤める友人の話しでは、朝は自家用車で通勤のとき、渋滞に巻き込まれるとバイクタクシー(バイクの後ろの席に乗る、ヘルメット着用義務あり)に乗り換えて大学の講義時間に間に合わせるといいます。バイクタクシーは安い上に、タクシーよりはるかに早く目的地に着くので人気です。仏教国だけに寺院が多いのもバンコックの特色です。観光案内図を見ると、「ワットポー」などポーの付く場所が多いですが、これは「寺院」の意味です。更に市内を歩くと、至る所に、とくに商店やレストランなどの敷地内に屋根付きの小さな仏壇があり、花や供え物が絶えないのもタイらしい風景です。

水上市場

タイにはさまざまな観光地があり、郊外へ行くとバンコックの様な都会とは異なった情緒を楽しむことが出来ます。水上市場も日本では経験出来ない場所です。川岸から遊覧船に乗ると、川には食品や日用品、観光客のお土産等を積んだ多くの船が船上で商売をしています。また、プーケットなど南の海岸は観光地として世界各国からの観光客で一年中賑わっています。何しろ冬のない国なので、年中温暖な気候で観光にはもってこいです。昔の首都のチェンマイは象の飼育場のあることで有名です。静かな町で大きな寺院が至る所にあり、バンコックの賑やかさとはまた異なった趣きがあります。チェンマイの郊外へ行くと、今でも少数民族の部落が点在し、大都会とはかけ離れた生活をしています。ある時、この部落を訪れたら、そこの庭先に見事なケシの花が多く咲いていました。チェンマイの北のビルマとの国境へ行くと、そこは「トライアングル地域」と呼ばれる麻薬、覚醒剤の密売の本拠です。日本の観光客はくれぐれもその辺には近付かない様に注意して下さい。その地域に入ったら命の保証はありません。

チュラボーン王女からアジア毒性学会を代表して私が感謝の楯を頂きました。

2012年のタイ訪問は私にとって特別の経験でした。この年バンコックで開かれた国際会議には世界各国から約300人の人々が参加しました。第一日目には、タイ王室のチュラボーン王女が開会式に参加し特別講演をされました。チュラボーン王女は科学者で私がお会いするのは今回で3回目です。今回の会議の開会式では、チュラボーン王女からアジア毒性学会を代表して私が感謝の楯を頂きました。

タイ国民の王室に対する崇敬の念は日本の皇室に対するそれ以上です。現在の国王は84歳で病気療養中ですが、市内のいたる所に額に入った国王の等身大の絵が飾られています。国王には4人の王女と一人の王子がいて、今回開会式に出席されたチュラボーン王女は末っ子です。日本と同様に、皇族がホテルで開催された開会式に出席される場合、ホテル側の神経の使いようは異常な程でした。4時から開催されるのに朝から警察がホテルのロビー等を念入りにチェックし、王女が歩く通路には赤の絨毯が敷かれました。

1時頃からは、一台を除くすべてのエレベーターは閉鎖され、会場になっているホテルのロビー内の人の移動も制限されました。今回は開会式の前に、会議参加者の中で、10人程の招待者が王女を囲んで写真をとりました。

チュラボーン王女を囲んで

タイは9月が雨期ですが、幸いにも毎日晴天で会議の最終日だけが雨でした。これまでは、日本からバンコックの空港に降りた途端にむっとする程の高い湿度と猛暑に悩まされましたが、今回は日本が猛暑だったせいか、バンコック市内を歩いてもそれほど暑く感じませんでした。高齢になるとバンコックまでの6時間はまだ堪えられますが、10時間以上の欧米への飛行機の旅は身体にこたえます。なんといってもタイはくつろげる国です。




累積今日昨日